前回の話の続きになりますけど、言葉の「響き」と「意味」のバランスを考えながら歌詞を書くという作業を通じて、あるとき気づいたことがありまして。今日はその話をしようと思います。
新川です。どうも。
ぼくは映画ファンでもあるので、昔から映画の作り手の話にも興味があるわけなんですが、そんな中、長年気になっていたことのひとつが、ある種の映画(まぁ、いわゆる作家性の強い映画)における「難解なシーン」は、いったいどういう発想で作られるのか?ということでした。
素人の考え方だと、映画もしくは物語というのは、あくまでわかりやすく観客に提示すべきだと思うじゃないですか。なのに一部の映画作家たちは(物語を語る能力に長けているにも関わらず)、どうしてわざわざ話をわかりにくくしてしまうのか?っていうか、わかりにくいシーンを意図的に作るほうが難しそうって思いません?
でも、あるときふと気づいたんです。もしかしたらそれって、作詞における「意味」より「響き」を優先する行為と同じなんじゃないかって。
前回も話しましたが、歌詞の意味合いをわかりやすく伝えてくれる言葉であっても、歌ってみたときの響きがあまりに良くなければ、その言葉は使えません。少しでも響きの良い言葉に差し替える必要があります。それによって、そこだけ意味が不明瞭になるとしても、です。
それと同じようなことが、映画作りにおいてもあるんじゃないでしょうか。物語がわかりやすく伝わるように撮ったシーンでも、その「わかりやすさ」が映画を損ねていると監督が判断した場合、説明的な要素を排した「出来事」のみを描写したシーンに差し替える、というようなことはあると思います。言葉の「意味」より「響き」を優先するように。
それが結果的に、観客の目には「難解なシーン」に映るってことなんじゃないかと。いや、全部ぼくの想像ですけどね(笑)。でもそう考えると腑に落ちるなと思って。
だからぼくらが観て戸惑ってしまった難解なシーンの、わかりやすい別バージョンを比較で見せられたら納得がいくのかもしれませんね。「あ、これだったら、わからないほうがいいわ。説明されちゃうと興醒めだわ」みたいな。
そういえば、難解な映画の代名詞として知られる、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)は、当初全編にシーンを解説するナレーションがつくはずだったそうです。でも、それはやらなくて大正解でしたよね(笑)。それをやってたら、ここまで伝説的な作品として語り継がれることはなかったでしょう。
それこそモノリスの前で猿人たちがギャーギャー騒ぐシーンで「説明しよう!」なんてナレーションが入ってきちゃったら(笑)。
それではまた。