2024年8月23日金曜日

同類。


このところアマプラで古いB級映画を観るのにハマッています。

新川です。どうも。


前回『必殺!恐竜神父』(2017)というC級バカ映画を観た話をしましたが、それを機に「今度はもっとちゃんとしたB級映画を観よう」と思いまして(笑)。

で、アマプラで観られる50年代とか60年代のB級映画を何本か観たんですよ。エド・ウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959)とか、ロジャー・コーマンの『アッシャー家の惨劇』(1960)とか。

そしたら案の定、AIがその手のロクでもない映画ばっかりどんどんオススメしてくるようになって(笑)。しょうがないから観るっていうルーティーンができあがってしまいました。

それが観てみるとなかなか面白いんですよ、どれも。「なんだこりゃ」な出来ではあるんだけど(笑)、それはもう大前提として観てるわけじゃないですか。そうすると逆に、その映画の「いいところ」にすごく敏感になるんですね。

「何気にこのカットすごいじゃん」とか「何気にこの展開アツいじゃん」みたいな瞬間が何度かあるだけでもう「悪くないじゃん」って(笑)思えるわけ。もちろんツッコミどころはツッコミどころとして笑いながら楽しめますし。

だから次々と観ちゃうんですよ。だいたい1時間ちょっとで終わっちゃう観やすさも手伝って。


でも思ったんですけど、こういう昔のB級映画を作ってたひとたちって、決して才能がなかったわけじゃないんですよね。あくまで、最低レベルの予算と労働力でどこまで面白い娯楽映画を作れるか?っていう実験をしてたんだと思います。

たとえば同じカットを何度も使い回すとか、NGテイクの強引な採用とかは、少ないフィルムを節約するために考え出されたアイデアでしょう。だからB級映画の「ツッコミどころ」には、そういった何かしらの事情があるんですよ。

そして作り手たちは、おそらくその状況を楽しんでもいたはずです。限られた中で工夫してモノを作る楽しさですよね。だからエド・ウッドにしてもロジャー・コーマンにしても「カネがあればもっとマトモな映画を作れるのに・・・」とは思ってなかったんじゃないかな。やっぱり「オレたちの映画はこれでいいんだ!」っていうインディペンデント・スピリットがあったんだと思う。それは作品から思いっきり伝わってきますから(笑)。だからこそ彼らの映画は、今でも(一部のひとたちから)愛され続けているわけで。


そういう意味では、ぼくもまったく同類なんです(笑)。ぼくもそういうスタンスで音楽を作ってますからね。もう無茶苦茶共感します。

だからぼくも「B級ポップス」の作り手として、今後も「A級」にはない魅力を持った音楽を作り続けていくと思います。


それではまた。