2015年8月21日金曜日

続・ダンスミュージックの歌詞問題。


冷麺にフルーツがのっかってる意味が未だによくわかりません(あれいる?)。
新川です。どうも。

さて、前回のブログでは「ダンスミュージックの歌詞ってどうやって書くんだろう(それも日本語で)?」という問題にブチ当たって、日本語のダンスミュージックの「歌詞」を研究し始めた、なんてことを書きましたが。
まぁ、前回も書いた通り、単に歌詞に注意してダンスナンバーを聴くようになったというだけなんですけど(ビール飲みながら)、それでもなんとなく気づいたポイントはありました(あくまで、ぼくが日頃好きで聴いているものに限った話ですよ)。

基本的には「なんでもアリ」だと思うんですけど、ただ、こういうテーマはめったに出てこない、ということが二つあって、そのひとつが「悲しみ」です(笑)。
「そりゃそーだろ」という話ですけど(笑)。ノリノリのダンスビートに「ラヴ・イズ・オーヴァー」とか「ジョニィへの伝言」みたいな歌詞がのっかってたら、戸惑いますよね(笑)。「踊らせたいのか、しんみりさせたいのか、どっちだ?」っていう話になっちまいます(笑)。
従って「聴いてる方が困る」という理由で、「悲しみ」を歌うのは、あんまりよろしくなさそうです(ちなみに、洋楽では悲しみを歌ったダンスナンバーはけっこうあります。でも日本語だとねぇ、やっぱり過剰に「意味」で聴いちゃいますから)。
もし「悲しみ」をテーマに取り上げるなら、「悲しみが報われる」「悲しみから立ち直る」という歌にしてアッパーなテンションに向かわせるのはアリでしょうね。
サビ前で「そんなとき、あなたに出会った」とか「それでもオレは(わたしは)くじけない!」みたいな展開にしてね(笑)。

もうひとつの「めったに出てこないテーマ」は・・・テーマというか、詩の形態なんですけど、それは「叙景詩」です。
詩の種類には「叙情詩」「叙景詩」なんてものがある、というのは、みなさんも学校の国語の時間なんかで聞き覚えがあるかと思います。
ざっくり説明すると、「叙情詩」は、語り手の気持ちや心の動きを描写したもの。「叙景詩」は、語り手の目にしている風景や光景を描写したもの。です。
個人的な感想ですけど、ポップソング(とくにJ-POP)の歌詞というのは、おそらくほとんどが「叙情詩」に分類されるような気がします(もっとも、歌の歌詞というのは多種多様なので、本来どちらかに分けられるようなものでもありません。「叙情詩的性質の強い歌詞」と言ったほうが正確かもしれません。が、面倒なので、ここではそれを「叙情詩」という言葉で以下も統一しますね。「叙景詩」という言葉についても同様の扱いにさせてもらいます。ご免なすって)。
「会いたい」「愛してる」「そばにいて」「思い出にしたくない」などなど(笑)、
これら聴き馴染みのあるフレーズは、語り手の「心の声」を描写したもので、カタチのない純粋な言葉だけのメッセージです。こういう歌は、聴き手の心にダイレクトに届くと同時に語り手と同化できるので、共感しやすいんですよね。
不特定多数の人たちに向けて作られるポップソングに、こういった「叙情詩」が用いられるのは、ごくごく自然なことだと思います。要は「わかりやすい」と(笑)。
さらにダンスミュージックともなれば、「歌詞のわかりやすさ」は、なおのこと大事です。基本は「踊らせる」ことを目的とした音楽ですから、決して悪い意味でなく「深く考える必要のない」、よりシンプルで、気分が高揚するような、心に直接響く言葉を使った歌詞、すなわち「叙情詩」がいっそう効果的なわけです(逆にまったく荒唐無稽でシュールな歌詞もアリだったりしますね。意味を排除することによって、言葉を「サウンド」として楽しむことができますし、「意味はない!」っていうクレイジーさが愉快だったりもしますから。これもまたひとつの「わかりやすさ」のアプローチだと思います)。
そんなわけで、これまた「そりゃそーだろ」という話ですが、先述の、風景や光景を描写した(言わば聴き手の想像力を要する・・・まぁ、わかりにくい)「叙景詩」という形態、これがダンスミュージックの歌詞には、やはり相性の悪さゆえか、あんまり出てこないんです(繰り返しますが、ぼくが聴いているものに限った話です)。
で、ここからが問題の核心なんですが。
作詞家としてのぼくが好んで書くのは、この「叙景詩」なんです(笑)。
この話題、長くなりそうなので、また次回!

それではまた。