ここんとこ家で観る映画は古いアメリカのB級映画ばっかしでしたが、さすがにちょっと飽きてきました。そろそろこの沼から脱出しようかと。
新川です。どうも。
そこで先日は180度違うタイプの映画の観ようと思って、アマプラのオススメ作品の中から『台北暮色』(2017)という台湾の映画を選んで観てみました。
巨匠・ホウ・シャオシェン監督の弟子筋のホアン・シーさんという方の監督デビュー作だそうで、まさしくホウ・シャオシェン・スタイルの実に淡々としたヒューマン・ドラマでした。いや、久しぶりにこういう「淡々系」のアジア映画を観ましたねぇ。そして久しぶりに真面目な映画を観た(笑)。
まぁ、悪くはなかったんですけど、さすがに(いろんな意味で)とんでもないことが次々に起こるアメリカ製のB級映画を観まくったあとだったので、薄味な印象はどうしようもなかったです(笑)。「これ、なんも起こらねぇ映画だな」みたいな。
それで思ったんだけど、この手の淡々系映画って、どうやって企画が成立するものなんでしょうね?
つまり、こういう映画って言葉でひとに魅力を説明するのは難しいじゃないですか。それこそ明確なストーリーもないような場合にはなおさら。やっぱりその魅力は実際に映画を観て感じてもらうしかない。少なくとも理屈で全てを理解できるものじゃないはずですから。
じゃあ、そんな「言葉では魅力を説明できない映画」は、企画書や脚本の段階では、いったいどうやってゴーサインを獲得したんでしょうか?
たとえばプロデューサーや出資者を前にして「・・・と、まぁ、こんな感じで劇的なことは何も起こらない映画なんです。でもそこがこう、なんとも言えずイイ感じの映画になる予定です」みたいなプレゼンをしてもさ(笑)、「ヨシッ、やろう!」っていう空気にはならないですよね。まず「それ面白いの?」っていう反応しか返ってこないでしょう。「お客さん途中で寝ちゃわない?」(笑)。
でも、言葉で内容を説明したらそれくらいフワフワしちゃいそうな淡々系映画が実際に数多く存在するということは、それらの作品はまだ「言葉だけのやりとり」しかしてない段階においても、なんらかの勝算を得ていたということですよ。それこそみんなが「ヨシッ、やろう!」ってなるような。
その決め手は、いったいなんだったのか?業界のことはよく知らないイチ映画ファンとしては素朴な疑問なんですよね。
もしかしたら淡々系の映画作家たちは、映像の詩人である同時にプレゼンの達人でもあるのかもしれない。だって、たいていのひとは途中で居眠りをしてしまうであろう映画の企画にゴーサインを出させるって、考えてみたらすごいことですよ。
それこそジム・ジャームッシュとかも、実はプレゼンがすごく上手なのかも(そうは見えないけど)。「これ、よく企画が通ったな」って言いたくなるような退屈な映画いっぱい撮ってますからね(笑)。いや、もちろんジム・ジャームッシュはそこがいいんですけど。
それではまた。